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青森県八戸へ
この、ストームはゆっくりと通り過ぎ3日目、動けないもどかしさに辛抱もたまりかね、うねりの残る海上で、船体からシーアンカーを切り離し、風上に回りこみやっとのことで、シーアンカーを回収した。
この頃から夫は悩んでいるようだった。思った以上に距離が走れないのである。
走っては流され押し戻され、すでに3週間近く走っているにもかかわらず、1日平均では40マイル足らずであった。
限りある水と食料であり、この計算ではあと50日はかかるという。

すでに、オートパイロットも破損し、『あてになるクルー』を1人失っていた。
夫は『家族の命を守る』という重圧に耐えており、毎日食事をとっているにもかかわらず、頬の肉は削げ、表情は険しいことが多かった。
彼は負けず嫌いで現実主義であり、常にある程度の勝算を見込んで行動する。
この状態では余力を残して後退すべきと判断したのだろう。

遠足気分の家族を連れてこの海を渡るのは無理だと、今に思えばそれは賢明な選択であったと思う。私は「ここまで来て・・」という思いもあったが、先の見えない航海は辛く、時化の来るたび航海機器が壊れ、状況は苦しくなることは目に見えていた。
この決断に従うほうが賢明だろう。イノシシのような盲目的突進型の性格である私は、ツキに見放されれば自爆も多い。

私たちはその日から、くるりと向きを変え、西へ西へと進んだ。
それまでは駄々をこねたように足の遅かった「ハーモニー」は手のひらを返したように快走した。行く手にもゲールが待ち構えていた。しかし、それを超えないと、日本のどこかに帰れないのだ。

私たちはドローグを流して艇速を止めながら、一方トライスルとインナージブを揚げ、低気圧の中心に吸い込まれるように突っ走り、そして『目』に入り、風が止まるのを見計らい、ドローグを引き上げた。
『目』の中でもうねりは6メートル以上あり、うねりの谷間に入ったところでドローグをウインチで巻き上げながら、引っ張りあげて回収しエンジンで進んだ。
再び逆の渦に突入すると、今度はストームセイルを揚げて走り抜けるという強行突破であった。
それでも、この環境から抜け出せると思うと全く苦にならず、新たなアドレナリンが吹き出ているようだった。そして、沿岸200マイルまで戻った頃、海は穏やかになった。

数週間ぶりの青空。
みんなで帰ったら何が食べたいかと言い合った。
「ハンバーグかステーキがいいな。おなか一杯食べたい。お父さんいい?」
「うん。お父さんは焼肉がいいな・・」
「お母さんは、おすしがいいな。マグロとイクラ・・」
幸せなひと時であった。この時間だけでも「航海に出てきてよかったなぁ・・」と思う。
そして、再び娘の『社会地図帳』で入港する港を探した

青森県八戸港。
商港漁港どちらもあり、ここならば船の修理や補充もできるだろうと思った。
その日の夕焼けはすばらしかった。
あたりは黄金色に染まり、大きな太陽が西の水平線にゆっくりと沈む頃、空は琥珀色に変る。そして、群青色のコントラスト。

ぽっかりと満月が空に浮かび夢のような時間は終わる。
詩人であればこの空の色。移り変わりをどのような美しい言葉で表現するのであろうか。
そんなことを、空を見ながら考えた。

娘はすぐに色鉛筆を取り出し絵を描いていた。私は船を知らない。
船に乗ると酔う。健康な私にとって、自分の体のコントロールを奪われる船酔いは恐怖である。だから船はできれば乗りたくない。その気持ちは今も変らない。
しかし、嵐の中を健気にも、私たち家族を守り通してくれた船には感謝の気持ちが起こっている。船に意思があるかどうかはわからないけれど、駄々をこねて思うように走らずもどかしさを感じた船が方向を変えたとたん、飛ぶように走り出した。
舵を固定し眠っている間もどんどん船は青森に進路をとり、まっすぐ私たち家族を連れ戻してくれた。
理想の船ではないけれど船に対しても家族と同じような愛情を感じる気持ちがやっと芽生えている。7月、私たちは青森県八戸港に入港しもやいを取った。