2004年2月11日、石垣島を出港
2003年12月16日、平良港を出て、伊良部島を通過する頃にはすっかり日は落ちていた。北東の風は、石垣島の平久保崎の燈台を見る頃、南東に回り、次第に海はと穏やかになりひんやりと澄んだ空の星はとても輝いていた。

翌17日、石垣港の黄色い桟橋を探していると、手を振るヨット『TANIWHA』の栗原さんご夫妻の姿を見つけた。栗原さんは、なんと3人の子供を連れてニュージーランドを出港し、3年間の航海を経て現在は地元でカフェを経営されている。
「一番下の子は4歳で大変だったけど楽しかった。絶対子連れのクルージングを勧めるよ」と自信たっぷりに話して下さった。当時の話をお聞きしているうち、なんだか自然と肩の力が抜けてリラックスしてくる。ご夫妻には癒しパワーもあるようだ。
 (クリさんとフサさんは、石垣の大川で喫茶店「CAFE TANIWHA」を経営)

TANIWHAの栗原さん
ご夫妻
以前、フィリピン在住の横山さんから、「年内早いうちにバシー海峡を渡れ」とアドバイスを受けていたけれど、この辺は高気圧の縁にあたり、冬はとても天気が悪い。日本列島が冬型気圧配置なら、こちらも北東の季節風が強く吹く。しかし、よく続いても3日程度で、寒の緩みは必ず来るが、それでも曇りか小雨で、なかなか晴天にはならない。
晴れた日はTシャツで過ごせるが、風が吹くとジャケットを着込む。南の島でも、冬、ここではソーラーパネルはほとんど役に立たないのである。いつになればバシーを渡れるのか、とにかく海路の日和を待つしかない。
「石垣島にはおもしろい人が沢山いるんだよね。」
『ハーモニー』より数日遅れで入港してきた『信風』の中林さんの言葉である。
この島の魅力に取り付かれたお一人で、今年の越冬はこの地で過ごす予定だ。
別名『移民の島』と呼ばれるのは、その昔大津波で島民が激減し、当時の琉球政府が周辺の離島から人を強制移住させたという歴史以外に、この島にやんわりと全てを包む懐の深さを感じるからかもしれない。
日本で最後の寄港地となった石垣島でも沢山の、魅了的な方々と出会うことができた。その横綱を差し上げたいのは、海上保安庁の浅野さんだろう。
沖縄生まれのハーフ第一号と称し、休みの時はハーモニーに遊びに来てくださる。
若い頃、マグロ船に乗り、世界の海を渡った時の楽しいエピソードを、巧みな話術でお話して下さり、私達は笑い転げた。
定年後は、ヨットで悠々自適に過ごすことが夢だと言う。いつか必ずまたお会いしたいと熱望する。
『ハーモニー』の並びには『うみまる』が停泊している。
彼はニッポンチャレンジの南波さんのクルーとして、日本一周に乗船している。
それでこの船名をもらった。
彼も2003年の夏、石垣島を出港し単独で日本一周に出たのだが、相次ぐ艇のトラブルに見舞われ沖縄本島から引き返している。「3ヶ月くらいは鬱状態になっていましたよ・・。」と話すが、とても明るい性格のようだ。
「必ずまた出直しますからね。そのときはハーモニーを探しますよ。」
近い再会を期待して、シーマップと気象FAXを彼のパソコンに入れた。

石垣島出港時伴走して下さる石垣さん
石垣島での出会いは書ききれない。
リタイア後は船を購入し、電気の設備を充実させ快適なクルージングライフを送るのだという根石さんや、退屈していないか 不自由はないかなど、私達をいつもいつも気に掛けてくださる石垣さん。
この島で外来のヨットはとても歓迎される。
気ままに、のんびりと、1年9ヶ月間、日本列島を南下してきたけれど、私達にとって日本を再発見した旅だった。
不思議なことに南に下るごとに自分達の家族のルーツが少しづつ鮮明になってきた。父や叔父が、私達の寄港をきっかけに、その遠い記憶をよみがえらせる。
そして突然、親戚が現れたりするのだ。

どこに行っても誰かが私達を待っている。そして家族をいたわるように、接して下さるのだ。それに素直に甘えられる。とても不思議な経験である。
『二人だけのヨット旅行』の著者 神田真佐子さんは「ヨットがとりもつ不思議な縁」と自著に書かれている。これは同じ経験した者だけが感じるのだろう。

2月11日、10日間続いた冬型気圧配置がようやく緩み、チャンスが来た。
ロシア艇は1日先に出港し、私達は、11日お世話になった方々の見送りを受けて、穏やかな海に向け、セイルを上げた。



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